この時代の背景としては、

奈良時代の初めに成立した大宝律令(701年)すべての土地は国家のものとされ、土地の私有は許されなかったが、墾田永年私財法(743年)により開墾した土地を自分のものとしてよいことになった。平安時代初期、有力な農民は開墾により私有地を広げていった。

彼らを開発領主といい、その土地を荘園といった。開発領主たちは国司の収奪や盗賊から荘園をまもるため武装して武士団が形成されてきた。これらの武士団をまとめていくためには中心となる貴種が必要となり中央から派遣された天皇の姻戚の軍事貴族の末裔である桓武平氏と清和源氏の2大武士団にまとまっていった。

桓武平氏は桓武天皇のひ孫・高望王(たかもちおう)が”平”姓を賜って上総介(上総の国を統率する次官)として現地に赴任し一大武士団を組織した。これが桓武平氏のはじまりだ。以後、平氏は関東に勢力を伸ばし朝廷や高級貴族に仕え、中央政権と深いつながりをもっていく。

やがて一族間で所領争いが起こり、高望の子・国香が甥の平将門の殺害され、将門は武力で関東一円を支配下におさめた。朝廷は征討軍を組織するとともに、関東武士にたいし ”将門を倒した者に四位、五位を授ける。” と約束した。国香の子・平貞盛は下総国の藤原秀郷とともに将門を滅ぼした。

将門の乱を平定した平貞盛は関東から西国へ拠点を移し、その子・維ひらは伊勢国に土着する。伊勢平氏の祖となる。
数代後の正盛は院政をはじめた白河上皇の信任得て各地の国司を歴任する。正盛の子・忠盛も白河・鳥羽両上皇に仕え、武士とは異例の昇殿を許され正四位上まで昇り刑部卿に就任した。

この忠盛の嫡男が平清盛である。
保元・平治の乱に勝ち残った清盛は後白河上皇とくみ、朝廷のなかで急速に昇進し政権を掌握する。貴族社会は武士出身の清盛の昇進にそれほど異をとなえなかったのは、清盛の父親が白河上皇であるという説がある。永暦元年(1160年)清盛は公卿から権中納言に任官、平氏一門もつぎつぎに各地の国司に就いていった。清盛は後白河上皇と結託し仁安2年(1161年)朝廷の最高位の太政大臣に就いた。

絶頂期の仁安3年(1162年)、清盛が病に倒れてしまい、政界から引退し、京都外から平家一門を遠隔操作することとなった。急速な平氏の台頭に後白河上皇は平氏打倒の計画をねるが、高倉天皇に輿入れさせた娘・徳子に皇子・言仁が誕生し清盛は外戚(外祖父)となり天皇の後見役として政治を動かす権限を得た。平氏政権に反発した後白河上皇の次男の以仁王(もちひとおう)は平氏追討の令旨(皇太子などの命令書)を出し全国の源氏の挙兵が相次ぎ、源平の争乱に突入することになった。


もとへ。